ほんのできごと。

本のことや、いろいろな出来事、日常のつぶやきなどなど

ジヴェルニーの食卓


集英社文庫 2015.6.30刊行

原田マハ 『ジヴェルニーの食卓』


秋の匂いを金木犀に代理させて、秋の存在を感じる。鼻腔をくすぐる秋の匂いと、肌をかすめるひんやりとした風はとても気持ちがいい。

そんな季節に、モネ展が開かれる。
モネにはあまり、秋のイメージがないのだけれど、誰でも知ってる彼の作品には興味がある。行こうかなと迷っている時、本屋に足を運んで偶然手に取った本が『ジヴェルニーの食卓』だった。

今では巨匠とされる複数人印象派画家達の生活を綴った短編集である。


マティス、ドガ、セザンヌ、そしてモネ。彼らの傍らで、控えめに身を置く女性達の目線から物語は語られていく。


少し前にも、『バベットの晩餐会』という本を読み、芸術の与える衝撃と光というものを感じていた。そこでは料理という芸術の話だったが、今回この本で語られるのは絵画である。

芸術家達は、その鋭すぎる感性と洞察力を駆使して、常識とは真逆の、あるいは常識に含まれる不純物を取り除いた視点を提供する。鮮明な視界から見える景色は、ある意味で未知の世界との遭遇だ。

人々は新しい美の光に慄きながらも、避けることのできない引力に引きずられ、その芸術の世界に傾倒する。


今まで私は、印象派の画家達は主観を景色に交えて描写しているのだと思っていた。自分の心が落ち込んでいる時に見える風景は、どことなく暗いから、黒を使って真っ赤なチューリップを黒いチューリップにしてしまおう、なんて具合に。

でもそれは大きな勘違いで、彼らはある意味、写実主義よりもずっと現実に寄り添っているのだということを発見した。


彼らはあくまでもリアルを追求していた。

写真のように、目に見える世界をそのまま写し取っても、それは単なる視力の結果なのだ。
その景色を構成している刹那的な要素をすかさず捉えて、その一瞬を閉じ込めるのだ。
光の射し具合、時間の流れ、物と物との関係性…。

存在する限り、万物は連関の中にあるはずで。それを的確に描き当てたのが、もしかしたら印象派なのかもしれない。


芸術はいつも、現実に寄り添って、そこに美しさを見出して真実を描く。

彼らの本質を見抜く目こそ、美しくうらやましいのだ。






人の死が与えるものって?

 

うだるような暑さ、眠れない夜に読み進めていったのはカポーティの『冷血』である。

 

作者が三年以上の歳月をかけて実際にあった衝撃的な殺人事件を取材し、改めて小説として文字を綴る。彼のこの作品は、ニュージャーナリズムの形成に大きな影響を与えたとされている。たしかに、ここで描かれている犯人達はとてもリアルで、彼らの感情の昂りや世の中の不条理に対する鬱憤、陰鬱とした他者への憎悪など対象人物に深く踏み込んで綿密に描かれていた。これは確かに過去に実際あった事件のことであるのだが、単なる報告書のように客観性のみを追求したものではなく、まるでその事件に携わった人々の伝記のような雰囲気をもった作品になっていた。

カポーティが、事件を客観的に捉えるのではなく、犯罪者側の心理、捜索員達のもどかしさ、事件を横目に見ている街の人々のざわめきなど、人間の感情的な部分を見捨てずに事件を分析することで、私たちが考えなければならない問題が明瞭に浮かび上がってくる。

 

例えば、死刑の問題。

 

人間が人間を殺してはいけないという普遍的な規則に唯一反し、許されている殺し。この事件は、陪審制をとっていたので、死刑の判決を下したのは市民なのである。陪審制によって、極端にいえば市民全員に人を死に至らしめる権利を得ることになる。ここで権利という言葉を使うのならば、私たちは殺すという概念を根底から見直さなければならないのかもしれない。同族を殺すということは

もしかしたら悪いことではないのかもしれない。実際、悪とされない殺しが死刑という形をとってそこに存在しているのだから。

ある陪審員は言う。

「死刑には反対だけれども、この事件のこの犯人たちについては賛成するだろう。」と。

彼はこの時点で、確かに死刑は必要だと感じてしまっているのだ。未来に起こりえる重大な犯罪の抑止力として死刑を考えているのか、あるいは感覚的な道徳に従って判断しているのか。

 

しかし、この事件の犯人たちの逮捕を夢見て何年も奔走してきた捜査員たちは、彼らの死刑執行に立ち会ったときに、得られるであろうと予想していた爽快感と解放感は訪れなかったとしている。私はこの両者のギャップに心を奪われたのである。

犯人を血眼に探し、被害者家族とも親交のあった捜査員デューイは、犯人の死に一種のわだかまりを感じる。一方で、被害者家族とも親交は特になく、一陪審員としてそこに参加していた者は彼らの死に疑問を感じない。むしろ死ぬべきだと感じている。

そこには人間の死の捉え方に大きな相違があるように思えるのだ。

私たちは、死をすべての終わり、終着点と考えるところがある。すべての物事に終止符を打つのは結局なんらかの形で現れた死だからである。

何か不祥事を起こした人が、その役職から辞退することで事態を収拾しようとするのも、その役職についていた時の自分に死を与えるということにほかならない。

死刑もそれと同一の様相を持っている。

つまり、ある事件の終着点を罪を犯した人間の死によって帰結させようとしているのだ。この考え方に基づいて死刑という人間の命を奪うことに道徳的には反対しながらも、必要性を感じている人間が陪審員として登場した人物である。

それとは反対に、ひとつの事件を始めから追ってきたデューイは、あるいは人間の死というものが必ずしも物事に終止符を打つものではないのかもしれないと考える。彼が本当に事件の終を感じたのは、彼が犯人たちの逮捕後に被害者家族の墓地に墓参りをしたときなのである。

だったら、彼にとって死刑はどういった意味をもつことになるのだろうか。死刑場には生き残った被害者遺族は訪れていない。誰のために行われた殺人なのか。

 

単に客観的に事件を追って、報告書のようにまとめたものでは考えさせられないことを考えさせてくれるような作品だった。物事が物語的に展開していくということは、否定しにくい事実なのだ。ニュージャーナリズムは、時間的かつ因果的に物事を捉え、そこに付随する何かを私たちの現前に明示してくれるものなのかもしれない。

地球が海で、宇宙が地球ならなんて



光文社新書から出版された松原隆彦の『宇宙はどうして始まったのか』を2日かけてしまったが、一応読み終えた。理系にまったく精通しない私でも、なんだか少し宇宙に対する理論物理学の見方がわかったような気がするのだ。


そういえば、最近映画化もされて話題になっていたホーキング博士のことも書かれていて、彼がブラックホール研究の第一人者だったり、宇宙が無から創生されたという理論を提唱した人といった、常識として押さえておきたかったところも知ることができた。

宇宙の始まり。

宇宙の始まりを知ることはつまり、私たちの存在者としての意味を知ることにも繋がる。時間を起源までさかのぼると、やはり宇宙の根源にたどり着くからだ。私たちは概して、時間的背景を持つ存在だから、時間の始原である宇宙の始まりは、私たちの歴史を知ることになる。


私たちは宇宙の始まりを知りたくて仕方ないのに、宇宙は未だ謎に包まれたままだ。


今回、とても印象に残ったのは、ホーキング博士の「境界・無境界条件」という考え方である。
南極点に南という方角が存在しないのと同じ考え方で、始まりと設定される宇宙の端緒(=境界)は存在しないのだ。
この説は、なんでも物語的に考えてしまう思考回路を覆してくれる。始まりと終わりのない世界。なんだか壮大である。
でも、先ほど言ったように宇宙が私たちの起源になるのなら、宇宙に始まりと終わりがないとそれはそれで困りそうだ。

ここでいう始まりと終わりは、物理的かつ直観的に見えるものなので、テロスとなりうる始まりとは意味がちがうのだけど、無からの創生理論を唱えると、「じゃあなんで無からいきなり創生されたの?」なんていう目的論を考えたくなるのが文系人間の宿命なわけで。


物理的な証明も、神の御業と考えても宇宙が始まった理由は教えてくれない。


私たちは、何の目的で創生されて、そのよくわからない世界の一部で一体何に貢献するために生きていけばいいのだろう。

今も膨張している宇宙は、何のために膨張しているのだろう。

人間は地球からでられない。だとしたら、宇宙の膨張にはどんな意味が付与されているのだろう?

世の中には「何のために」が溢れている。
科学は意義性を見出し得ない。
因果法則への疑問は解決してくれるけれど、目的性を与えてくれはしないのだ。


宇宙の本を読んでみて、「外」という概念が気になり始めた。






そもそも哲学の根源ってなんだ


「哲学をしたいなら、まずは哲学を哲学しなければならない。」

衝撃的かつ核心を得ている言葉であった。
この言葉の前に、私は打ちひしがれるしか術はなく、そして私は脱皮をしなければならない段階に来ている、というか、すでにしているべき段階に来ているということに、まだ見ぬ朝を知らせる光のように漠然且つ壮大なスケールで私に道標として立ちはだかってくれたのだ。

「なぜ君は哲学なんて役に立たないものをするの?」

「元々、国際関係と文学のどちらかを勉強したかったが、双方を評価できる人間になるなら思考方法の原点である哲学をすればいいと考えました。」

「哲学をするならば、物事の根本立ち返らなければならない。歴史を考えるとき、根本は二分されて流れを追っていくことになるよね。文明と文化。この二つに分けられて歴史は紹介される。いわばこの二つが根本にあるわけだよ。君は文明と文化の違いを説明できる?」

「文明は科学の発展で、文化は人の思想を追ったものではないのですか?」

「それらしきことを半分くらい言っているけど、落第だね。」

(意気消沈)

「哲学は根本を理解しなければ、どんなに上部構造を知ったところでなんの役には立たない。実存主義があるのはなぜ?実存主義とかなになに主義とかっていうのは、人類全体の悩みを解決しようとしてできた思想形態でしょう?それなら、それらの悩みは一体どこからくるの?それは人間に意識があるからでしょう?意識があるから人間は悩む。じゃあ意識はどうしてできる?それは言葉があるからだ。言葉は聖書によれば、ロゴス、つまりは悟性からできる。君は全ての根源ともいえる、言葉が誕生した瞬間から考えを巡らせなければならないはずだよ。
哲学をしようと思うなら、哲学の本質に遡らなければならない。悩みが言葉という宇宙の本質から出たものならば、それを解決するのもまた哲学なのである。」

私はいつも自分がなぜ哲学をしたいのか考えていた。しかし何度考えても、出てくるのは「体系的な思考方法を身につける」ということでしかないのだった。

しかし今日私の師としてこれから関係を築きあげさせていただきたいと思った方とのお話で気付かされたことはたくさんある。

・世に数多くある哲学思想は、その時代の民衆が抱える悩みの解決法である

・悩みの一部だけを思考の対象にしたとしても、それは社会の役に立つことはない。一部を理解するには、根本を知る必要があるからだ。


そして、同時に真に優秀な編集者への見解も教えてくださった。

「私の考える優秀な編集者は、作家の伝えたいメッセージを理解して、それをより伝えやすくするために論じあえる人です。」

「それは違うよ。編集者が作家と内容について論ずることができるなら、編集者自身が作家になればいいよ。それに、論ずることに重きを置くとしたら、その編集者は自分の考えの範囲内で理解できる作品しか作ることができない。編集者にとって大事なのは、大物作家となれる素質を持つ作家を直観で見つけることのできる能力だよ。それには編集者にも、高い水準の知識はもちろん必要だ。」


愕然としたのである。

今まで、なぜ編集者になりたいのか散々考えてきたけれど、根底から覆されたようだった。


ドストエフスキーなど、文豪と呼ばれる作家を産み出したかった。
その考えはあっているのだろう。

しかし、その目標に至るまでの考えプロセスが間違っていた。

ドストエフスキーもヘッセもヘミングウェイも、彼らの時代に色濃い悩みを、イエスが人々の身代わりとして十字架を背負ったように、代表して考えるという意味で、十字架を背負うことで文学に向き合った。いつの時代も、文学は民衆の悩みを理解して表現するものでなければならない。
それには、編集者は時事問題に積極的になり、今人がなにに悩んでいるのかを徹底的に分からなければならないのだ。時代の先見ともいえる技を、これから私は磨いていこう。


学問、人生における指針ががらりと変わった数時間であった。





自分の作り出した世界観へのこだわり。


五月祭での友人の勇姿を見物した後に、目指すは阿佐ヶ谷ロフトA。
ドラマ化もされた『仁』という漫画原作者である村上もとかと、ぽけまんという団体によるトークショーに参加する。
今日のそれは、知り合いの方に情報を教えてもらいチケットを入手したわけだが、阿佐ヶ谷ロフトAにいざ着いてみると、某大手文具雑貨店を想像していた私の予想を裏切るファンキーなライブハウスだった。時間ぎりぎりに入ってみると、そこには中年男女の背中がずらり。
なんだか30年ぶりの同窓会に喜々として集まる元高校生達をを覗いているようだった。


少し窮屈なライブハウスの正面には、村上もとかさんと、進行役の方が座っている。第一部では、『仁』の作品についてのストーリー解釈、制作秘話などであった。

なぜ『仁』が大ヒットしたのか。


それは、内容に一切の妥協が無いからであろう。歴史・医学の分野に監修をつけ、できる限り本来の歴史の流れにそぐうように作る。ファンタジーというジャンルに分類してしまえばそれで終わりだが、『仁』という作品は、ファンタジーの中でも、リアリティーを求め、タイムスリップという点以外の箇所ではできるかぎり現実的な手法で治療法を編み出しストーリーを進めていく。登場人物にしても、仁先生以外の人間で、150年後の世界に行ったことがあるという設定の人物を作ろうとしたときは、史上で実際に100年後からきた人間と言われていたという説のある佐久間象山という人物を当てはめた。そして、坂本龍馬が死ぬときは、彼が見たいと願っていたであろう未来の日本を垣間見せるというシーンを作った。実際に生きていた彼らの人となりや、行動から推測できる彼らの願望に合わせてストーリーを作ることで、ただのファンタジーではなく、現実味のあるファンタジーになる。『仁』は二重性持っていて、ストーリーのきっかけをタイムスリップにすることでファンタジーというジャンルに分類されるが、中身はむしろ歴史漫画と言えるのではなかろうか。

そして、妥協のない作品を描く作者も、やはり仲間からも志高いと評価される人なわけで。

デビュー当初は貧乏で、漫画家としては単行本が出されなければ儲かることはないが、単行本がなかなか出なくても村上さんは連載を続けたそうだ。文字通りジリ貧。しかしなんとかお金を工面して連載を続ける日々。最低限のお金しかないのに、求められるクオリティはより高いもので、編集部の要求に応える作品を作らなければチャンスもなにもない。
とてもシビアな世界である。しかし、そこに漫画家の世界観作りと編集者の選りすぐる目がなければ名作は成立しない。

ふるい落とす編集者の目に残るには、漫画の細部までこだわった世界観、内容が出来上がらなければならないはずで。

私はふるい落とす側の人間を目指す。それには、作家のニュアンスを敏感に察知し、的確な意見を与えられる人間にならなければならない。

「評価」

とてもシビアで残酷にも見える言葉ではあるけれど、それができない人間は何もわかっていないのと同じなのである。

評価できる人間になるために、量が質となる生活をまずは送らなければならない。漫画家にも小説家にも求められ、求めることのできる人間になるために、考えながらも行動に移していこう。




大塚明夫の語る声優魂

 
新年度に入り、途端に忙しさを増した毎日。さて、今日は本を買ってやるぞと意気込んで買ってきた中にあったのが大塚明夫の『声優魂』。このようなジャンルの本を読むのは初めてだったけれども、私のエッセイ進出は幸先の良いスタートを切られたかもしれない。
 
 
声優という職業に就いている人を好きになり、もちろんのこと自分が声優になるということへの憧れも今現在持っている。大塚明夫といえば、声優界の重鎮と言ってもいい存在なわけで。そんな彼が語る己の魂とはいかに。とっても好奇心の唆られる本であった。
 
 
 
さてさて、それでは内容についての記述に移ろうか。
一言で言えば、「やはり声優界は不安要素がありすぎる。」このことがはっきりと提示された内容であった。
 
 
生き残る声優と断腸の思いで声優界を去る人間。この両者の間には、やはり「才能」という先天的とも言えるファクターがあった。それを越えることは絶対にできないそうで。ただそこで立ち止まる人間は、そこまでの人間だったということで、人より少し秀でてるくらいの人間は、周りより頭一つ抜けるくらいのセンスを身につけるために努力しなければならない。どの業界にも当てはまりそうなものだが、声優界というか芸能界ではそれが顕著なのだろうと思う。
それに対応し続けることができる人間がどれくらい世の中にいるんだろうか。
私には具体的な数値を言われても、想像すらできないくらいの膨大な数なのだろう。だからこそ、大塚明夫には仕事がきつづけているのである。
 
 
そして今の声優に足りない部分。
それは己をステップアップさせ、自分の参加する作品の水準を自分が上げさせてやるというような気概、そして納得のいかないところではとことんぶつかるという情熱だった。昔とは声優という職業への感覚も違うのだろうが、今の声優は作品の一角を担う「役者」というよりは、むしろ「アイドル」という感覚が強い。話題性を狙う作品がたいていの場合そうであるように、人気が実力に先立つことが多くなっている。正直、それは現代に「傑作」と言われる作品が少なく、有名声優のネームバリューがないと視聴者も見る気が起きないようなレベルや内容の作品が多くなっているということも加担しているのだろうが、若手声優の活動方針にも少なからず原因はあるのだろう。
 
 
みんなから注目されたい。
不特定多数が見るアニメに出て、それが自分の出演作だと言ってみたい。
 
 
これらの理由は、これ自体では否定されるべきではないし、立派な理由でもある。しかし、これを内部にひた隠しにして、なんとなくそれっぽい演技をしてしまう人間が五万といるから問題なのだ。
ちやほやされたいという目的がメインにあるのにも関わらず、多大な人気を勝ち取るためには名作に出演しなければならない。声優という職業は、目的とそれに至るまでの過程で求められる力のギャップが大きな問題となりそうである。
 
 
 
しかしまあ、一般人から見れば、ある程度人気の固い声優は、それなりの実力も持っているわけで。
これからも私は彼らの声に惚れつつ、耳の保養として声優を追いかけていくのであろう。
 
『声優魂』、とってもおもしろかったよ!
 
 
 
 

出向いた先はスローシティ

母から「こんなものがあるから行っておいで。」「編集者になりたいならこういうとこ行ってみるのも大事じゃない。」なんていう口車に乗せられるがままに、てくてく一人、綺麗な街並みの白金にある明治学院大まで赴いてきた。目的はサティシュ・クマールさんという文化人類学者かつ哲学者とその弟子といわれる辻信一先生の講演会である。

TLCツアーという名称で、今日本で講演会をして回っているらしい。

彼らのコンセプトは、「スロー」。
スローフード、スローシティ、、、このスピードに侵された社会をどうにか落ち着けて、人間に丁度良い速さと行動の規模を見直そうという趣旨だと理解している。人間は発展に拍車をかけることしかできない。自然は己の丁度良い規模を知っているから、成長にも終わりがある。この時点で人間は、知恵という側面で自然に勝つことはできていないのである。自分が有限であることを自覚することもまた、知恵なのだから。


このことは、シューマッハーという経済学者の「Small is beautiful.」という一言に集約されている。小さいことこそ美しい。各々に適正な規模がそこにはあり、その規模で「ある」ことが大切なのだということだ。今人間は「する」ことに目が行きすぎている。そろそろ世界に相応しい自分の在り方を見つけなくてはならない。そんな感じたぶん。


サティシュさんには時間の都合で会えなかったが、彼の語らいをビデオに収めたものは見た。そこでなんとなく、私が一番好きだなあなんて感じたのは、彼が一番大切にしているであろう3S思想である。「Soil•Soul•Society」の3つから世界は成っているという考え方。構造的で時代遅れな感じもなく、そしてそこにはどことなく思いやりを感じることができる。


土:自然全体(我々は土から生じ土に還る。)

心:自己実現自己啓発(健康で思いやりのある精神を)

社会:飢えのない平等な分配システム(世界を満たす不正を無くす)


これらが全て連動して世界は回らなければならない。どれか一つが欠けてもいけない。なぜ?どれか一つ欠けるということは、偏った思想が世に蔓延することを示すからだ。


土への思いやりが無くなれば、人々は言うだろう。人間の幸福を優先して考えなければ、世界は平等にならないだろうと。社会への思いやりが無くなれば、人々は言うだろう。自然の中で人間が唯一脱線しているのだから、個の協調を気にする暇はないと。

そして心への思いやりが無くなれば、人々言うだろう。


世界が平等に機能しないのは、人間が多様性に富んでいるからであると。



自然にとって人間が有害でしかないのなら、なぜ人間が存在するのだろうか?
無価値な存在というものはあり得ないはずなのである。


たぶん、おそらく、人間の小ささという尺度が行きすぎてしまったのだ。
人は、「計量する」という行為によって「希少性」を生み出した。それによってさらに生まれるのはただの不安感。人が世界に希少性を見出すほど、私達は不安に苛まれる。本来、人は自然の中で丁度良い規模で暮らしてきたはずなのに、そこで満ち足りていたはずなのに、自ら不安を感じるようになってしまった。
そろそろ私達は、私達の尺度を自然に合わせなければならないようで。



そんなのって結局は理想論じゃないの?



それでも、私にできることをするのが、私が人であり続けるための条件だから。



「する」と「ある」が互いに支え、対等になるときこそが、世界にも自分にも優しい存在になれる時なのかもしれない。


正直私も、こんなの結局は理想論で実践に移す人がどのくらいいるのだろう?なんて考えていたわけで。しかしそれでも誰かが成さなければならないことは明らかなわけで。


なんとなく、一般人は「実践」を第一に考えて、結果を求めるけれども、論を唱えることさえ無意味にしてしまったら、人間中心の世界は行くところまで行ってしまいそうで。それなら、それこそスローにゆっくりとできることから始めてみようと思える人を増やす活動が今のところ大変重要だということです。




f:id:yustinaeun:20150328160815j:plain明治学院大学、キャンパスが洋風でうらやましかった次第です。f:id:yustinaeun:20150328160741j:plain