ほんのこと。
『MONEY』VOL.5より 村上春樹の文章について
ツイッターでも、評判のよかった柴田元幸さんが編集をしている『MONKEY』という文芸雑誌が、常々気になっていたので購入してみた。この雑誌は、内容もさることながら、表紙など、アートデザインも人の目を惹きつける。一目では文芸誌だとは思えないクオリティーの冊子である。
どうやら今回はイギリス・アイルランドの特集のようで、最近ちょこっとかじりはじめたチャールズ・ディッケンズの文章もあった。
まあ、今回私が触れるのは、特集を組まれたイギリスアイルランドの物語ではなくて、最後に掲載されている村上春樹の『小説家になった頃』というコラムなわけですが。
このコラムの中には、簡単にではあるが、村上春樹が村上春樹として大成するまでの経緯というか、デビュー作の『風の歌を聴け』が群像の新人賞に選出される前までの、村上春樹に降りかかった天啓のような、あるいは自分で成し遂げたもののような、そんなことが書いてあった。あとは、学生時代の暮らしぶりとか。
なんのテレビ番組だったかは忘れたけれど、そこでは東大生が選んだ、日本の頭の良い偉人ランキングが画面に表示されていて、村上春樹はそこに見事にランクインしていた。意外と賛否両論のある村上さんだけど、やっぱり東大生に選ばれるくらいには頭がいい。それはなぜだったのだろう?なんて、このコラムを読みながら考えていた。ここからは、完全に私個人の見解であるけれども、単純に、村上春樹は一般人が学校で教えられるような理想の生活リズムや、精神の持ちようを実現している人間だからなのではないかと思うのだ。
村上春樹の小説を読んでいると、洗濯・掃除・料理、隙間時間の熱いコーヒーとなにか動作が終わった時の熱いシャワー、時々小説片手にブランデーを一杯。この一巡の流れをこなしている。どの小説にもでてくるくらいには、この流れが習慣化しているのだろう。規則正しく、生活の質は損なわず。休みの日には、シャワーも浴びず、一日中ベッドでごろごろ、なんてせずに、時間があれば近くの市営プールに行くのだ。外に向かうことへのためらいのなさと、実行力。たかがプールに行くことでも、それは自らのエネルギーが生み出した、生活へのスパイスなわけで。こういった小さなスパイスをふりつづける継続力は、少なくとも私が求めているものである。継続力と、当たり前の日常を質を損なわず続けていく心の余裕。目覚ましの音が鳴るたび、心の中に嫌な感じが広がる私とは大違いである。
そしてあともう一つ。
彼は、自分にどういった能力が足りないのかを把握し、それを補う方法を独自に編み出すことができる。普通は、既存の方法の中から自分にあいそうなものを選んで実行に移すわけであるが、彼は自分で新しい手法を見つけてとりあえず試してみることができる。そこに先ほどの継続力。自分が編み出した方法が、本当に自分の求めていることに役立つのか、そんな不安をものともせず(実際本人は感じているのかもしれないが)、途中で放棄などしないでとりあえずは納得のいく形に落ち着くまで続けていく。人は、無駄だと感じてしまったものには労力をさきたがらないし、見えない先に不安を絶えず感じる。しかし、彼は闇とも思えるところから、自分なりのスタイルを作り出すのだ。欲求に忠実で、それを満たす行動力もある。すごいなあなんて。
まあでも、村上春樹はおそらく、自分がしている先に、結局なにも見つからなかったとしても、「やれやれ、僕には向いていなかったみたいだ。」そんな一言で、次に歩みを進めてしまうのだろうけど。
ほんのこと。2・25
さて、このブログではつたないながらも自分のために、書評にも挑戦してみようと思っております。今回は、文學界に掲載されていた伊藤たかみさんの『母を砕く日』という作品の感想を書いてみようかと思います。評価とかは、まあ、こうして感想を書き連ねていくうちにできるようになれればいいなあと思います。
伊藤たかみさんの作品はこれで二作目の読了になります。初めて読んだのは『八月の路上に捨てる』でした。芥川賞を受賞したものですが、これを読んだ当時は中学生だったので、また読み直してみようと思います。
今回読んだ『母を砕く日』で、私が感じ取ったテーマのようなものは、それぞれの愛の在り方について、でしょうか。少し平たく言い過ぎな気もしますが…。話の語り手が父と息子の交替制なのは、血の繋がりがない人間への愛をどう感じているのかを描写したかったからなのかもしれません。切れない絆のような、強固な繋がりのない人間に対して、それぞれの立場からみる愛の形というものがどういったものなのか決定的な違いがそこにはあるように感じられました。
相手を愛するということは、相手に苦しみを感じさせたくないということなのか、かつ相手の望みをどうにかかなえてあげたいということなのか。そしてそれらはもしかしたら自分の肩にのしかかっている荷物を下ろすという行為に値するのかもしれない。相手の望みと、自分を繋ぎとめる碇のような存在からの解放。それら二つの合致こそが愛なのか。
家族愛というテーマを扱った作品は数多くあるかと思いますが、家族全体が一体となるような流れではなく、各個人の立場を視点として確立しながらも家族の中庸を考えていくという真相の作品であり、それを表す媒体として遺骨の粉砕というものが使われており、とてもユニークな発想かなと感じられました。
やっぱり、伊藤たかみさんの作品は、一文目がとても魅力的で、読もうという気にさせてくれます。