ほんのできごと。

本のことや、いろいろな出来事、日常のつぶやきなどなど

人の死が与えるものって?

 

うだるような暑さ、眠れない夜に読み進めていったのはカポーティの『冷血』である。

 

作者が三年以上の歳月をかけて実際にあった衝撃的な殺人事件を取材し、改めて小説として文字を綴る。彼のこの作品は、ニュージャーナリズムの形成に大きな影響を与えたとされている。たしかに、ここで描かれている犯人達はとてもリアルで、彼らの感情の昂りや世の中の不条理に対する鬱憤、陰鬱とした他者への憎悪など対象人物に深く踏み込んで綿密に描かれていた。これは確かに過去に実際あった事件のことであるのだが、単なる報告書のように客観性のみを追求したものではなく、まるでその事件に携わった人々の伝記のような雰囲気をもった作品になっていた。

カポーティが、事件を客観的に捉えるのではなく、犯罪者側の心理、捜索員達のもどかしさ、事件を横目に見ている街の人々のざわめきなど、人間の感情的な部分を見捨てずに事件を分析することで、私たちが考えなければならない問題が明瞭に浮かび上がってくる。

 

例えば、死刑の問題。

 

人間が人間を殺してはいけないという普遍的な規則に唯一反し、許されている殺し。この事件は、陪審制をとっていたので、死刑の判決を下したのは市民なのである。陪審制によって、極端にいえば市民全員に人を死に至らしめる権利を得ることになる。ここで権利という言葉を使うのならば、私たちは殺すという概念を根底から見直さなければならないのかもしれない。同族を殺すということは

もしかしたら悪いことではないのかもしれない。実際、悪とされない殺しが死刑という形をとってそこに存在しているのだから。

ある陪審員は言う。

「死刑には反対だけれども、この事件のこの犯人たちについては賛成するだろう。」と。

彼はこの時点で、確かに死刑は必要だと感じてしまっているのだ。未来に起こりえる重大な犯罪の抑止力として死刑を考えているのか、あるいは感覚的な道徳に従って判断しているのか。

 

しかし、この事件の犯人たちの逮捕を夢見て何年も奔走してきた捜査員たちは、彼らの死刑執行に立ち会ったときに、得られるであろうと予想していた爽快感と解放感は訪れなかったとしている。私はこの両者のギャップに心を奪われたのである。

犯人を血眼に探し、被害者家族とも親交のあった捜査員デューイは、犯人の死に一種のわだかまりを感じる。一方で、被害者家族とも親交は特になく、一陪審員としてそこに参加していた者は彼らの死に疑問を感じない。むしろ死ぬべきだと感じている。

そこには人間の死の捉え方に大きな相違があるように思えるのだ。

私たちは、死をすべての終わり、終着点と考えるところがある。すべての物事に終止符を打つのは結局なんらかの形で現れた死だからである。

何か不祥事を起こした人が、その役職から辞退することで事態を収拾しようとするのも、その役職についていた時の自分に死を与えるということにほかならない。

死刑もそれと同一の様相を持っている。

つまり、ある事件の終着点を罪を犯した人間の死によって帰結させようとしているのだ。この考え方に基づいて死刑という人間の命を奪うことに道徳的には反対しながらも、必要性を感じている人間が陪審員として登場した人物である。

それとは反対に、ひとつの事件を始めから追ってきたデューイは、あるいは人間の死というものが必ずしも物事に終止符を打つものではないのかもしれないと考える。彼が本当に事件の終を感じたのは、彼が犯人たちの逮捕後に被害者家族の墓地に墓参りをしたときなのである。

だったら、彼にとって死刑はどういった意味をもつことになるのだろうか。死刑場には生き残った被害者遺族は訪れていない。誰のために行われた殺人なのか。

 

単に客観的に事件を追って、報告書のようにまとめたものでは考えさせられないことを考えさせてくれるような作品だった。物事が物語的に展開していくということは、否定しにくい事実なのだ。ニュージャーナリズムは、時間的かつ因果的に物事を捉え、そこに付随する何かを私たちの現前に明示してくれるものなのかもしれない。