ほんのできごと。

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地球が海で、宇宙が地球ならなんて



光文社新書から出版された松原隆彦の『宇宙はどうして始まったのか』を2日かけてしまったが、一応読み終えた。理系にまったく精通しない私でも、なんだか少し宇宙に対する理論物理学の見方がわかったような気がするのだ。


そういえば、最近映画化もされて話題になっていたホーキング博士のことも書かれていて、彼がブラックホール研究の第一人者だったり、宇宙が無から創生されたという理論を提唱した人といった、常識として押さえておきたかったところも知ることができた。

宇宙の始まり。

宇宙の始まりを知ることはつまり、私たちの存在者としての意味を知ることにも繋がる。時間を起源までさかのぼると、やはり宇宙の根源にたどり着くからだ。私たちは概して、時間的背景を持つ存在だから、時間の始原である宇宙の始まりは、私たちの歴史を知ることになる。


私たちは宇宙の始まりを知りたくて仕方ないのに、宇宙は未だ謎に包まれたままだ。


今回、とても印象に残ったのは、ホーキング博士の「境界・無境界条件」という考え方である。
南極点に南という方角が存在しないのと同じ考え方で、始まりと設定される宇宙の端緒(=境界)は存在しないのだ。
この説は、なんでも物語的に考えてしまう思考回路を覆してくれる。始まりと終わりのない世界。なんだか壮大である。
でも、先ほど言ったように宇宙が私たちの起源になるのなら、宇宙に始まりと終わりがないとそれはそれで困りそうだ。

ここでいう始まりと終わりは、物理的かつ直観的に見えるものなので、テロスとなりうる始まりとは意味がちがうのだけど、無からの創生理論を唱えると、「じゃあなんで無からいきなり創生されたの?」なんていう目的論を考えたくなるのが文系人間の宿命なわけで。


物理的な証明も、神の御業と考えても宇宙が始まった理由は教えてくれない。


私たちは、何の目的で創生されて、そのよくわからない世界の一部で一体何に貢献するために生きていけばいいのだろう。

今も膨張している宇宙は、何のために膨張しているのだろう。

人間は地球からでられない。だとしたら、宇宙の膨張にはどんな意味が付与されているのだろう?

世の中には「何のために」が溢れている。
科学は意義性を見出し得ない。
因果法則への疑問は解決してくれるけれど、目的性を与えてくれはしないのだ。


宇宙の本を読んでみて、「外」という概念が気になり始めた。