ほんのできごと。

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出向いた先はスローシティ

母から「こんなものがあるから行っておいで。」「編集者になりたいならこういうとこ行ってみるのも大事じゃない。」なんていう口車に乗せられるがままに、てくてく一人、綺麗な街並みの白金にある明治学院大まで赴いてきた。目的はサティシュ・クマールさんという文化人類学者かつ哲学者とその弟子といわれる辻信一先生の講演会である。

TLCツアーという名称で、今日本で講演会をして回っているらしい。

彼らのコンセプトは、「スロー」。
スローフード、スローシティ、、、このスピードに侵された社会をどうにか落ち着けて、人間に丁度良い速さと行動の規模を見直そうという趣旨だと理解している。人間は発展に拍車をかけることしかできない。自然は己の丁度良い規模を知っているから、成長にも終わりがある。この時点で人間は、知恵という側面で自然に勝つことはできていないのである。自分が有限であることを自覚することもまた、知恵なのだから。


このことは、シューマッハーという経済学者の「Small is beautiful.」という一言に集約されている。小さいことこそ美しい。各々に適正な規模がそこにはあり、その規模で「ある」ことが大切なのだということだ。今人間は「する」ことに目が行きすぎている。そろそろ世界に相応しい自分の在り方を見つけなくてはならない。そんな感じたぶん。


サティシュさんには時間の都合で会えなかったが、彼の語らいをビデオに収めたものは見た。そこでなんとなく、私が一番好きだなあなんて感じたのは、彼が一番大切にしているであろう3S思想である。「Soil•Soul•Society」の3つから世界は成っているという考え方。構造的で時代遅れな感じもなく、そしてそこにはどことなく思いやりを感じることができる。


土:自然全体(我々は土から生じ土に還る。)

心:自己実現自己啓発(健康で思いやりのある精神を)

社会:飢えのない平等な分配システム(世界を満たす不正を無くす)


これらが全て連動して世界は回らなければならない。どれか一つが欠けてもいけない。なぜ?どれか一つ欠けるということは、偏った思想が世に蔓延することを示すからだ。


土への思いやりが無くなれば、人々は言うだろう。人間の幸福を優先して考えなければ、世界は平等にならないだろうと。社会への思いやりが無くなれば、人々は言うだろう。自然の中で人間が唯一脱線しているのだから、個の協調を気にする暇はないと。

そして心への思いやりが無くなれば、人々言うだろう。


世界が平等に機能しないのは、人間が多様性に富んでいるからであると。



自然にとって人間が有害でしかないのなら、なぜ人間が存在するのだろうか?
無価値な存在というものはあり得ないはずなのである。


たぶん、おそらく、人間の小ささという尺度が行きすぎてしまったのだ。
人は、「計量する」という行為によって「希少性」を生み出した。それによってさらに生まれるのはただの不安感。人が世界に希少性を見出すほど、私達は不安に苛まれる。本来、人は自然の中で丁度良い規模で暮らしてきたはずなのに、そこで満ち足りていたはずなのに、自ら不安を感じるようになってしまった。
そろそろ私達は、私達の尺度を自然に合わせなければならないようで。



そんなのって結局は理想論じゃないの?



それでも、私にできることをするのが、私が人であり続けるための条件だから。



「する」と「ある」が互いに支え、対等になるときこそが、世界にも自分にも優しい存在になれる時なのかもしれない。


正直私も、こんなの結局は理想論で実践に移す人がどのくらいいるのだろう?なんて考えていたわけで。しかしそれでも誰かが成さなければならないことは明らかなわけで。


なんとなく、一般人は「実践」を第一に考えて、結果を求めるけれども、論を唱えることさえ無意味にしてしまったら、人間中心の世界は行くところまで行ってしまいそうで。それなら、それこそスローにゆっくりとできることから始めてみようと思える人を増やす活動が今のところ大変重要だということです。




f:id:yustinaeun:20150328160815j:plain明治学院大学、キャンパスが洋風でうらやましかった次第です。f:id:yustinaeun:20150328160741j:plain